ピカソとゲルニカ

当時のピカソをよく知っているジャック・ビダル氏。

スペインのカタロニア出身で、長い間パリで画材商を営んできた人です。

白髪のビダル氏は、「ゲルニカ」が制作された時のもようを、こんな風に話しています。


1937年4月26日、ナチス・ドイツの爆撃機がスペインのゲルニカを襲撃し、壊滅させた。

ピカソは、フランスの新聞「ス・ソワール」でこの大虐殺を知り、憤った。ピカソは考えた。

"この悪業を告発するために、どうすればいい?"

パリ駐在スペイン共和国大使のアラキスタンは、パリ国際展覧会に告発の絵を出品するよう、ピカソに依頼した。

私は当時、ピカソに画材を届けていた。

ある日、前日に注文を受けたカンバスを届けようと、ピカソのアトリエのドアをたたいた。

たしか午前10時ころだったから、"早すぎるかな"と思った。

そのころピカソは昼夜逆転の生活を送っていたからだった。

だが、ピカソは起きていた。険しい顔つきで「なぜこんなに遅いのだ」といった。

カンバスが届くのを、しびれを切らして待っていたことが読みとれた。

私はすぐ、カンバスづくりを始めた。

いつもの大きさをはるかに超えたカンバスが、彼の注文だった。

木枠を組み立て、画布を張った。

見るとピカソは、私の仕事を待っている間、アトリエの床にいくつものデッサンをかいていた。

彼は、台に乗って、木炭でデッサンを始めた。

一口もしゃべらず、まわりの音も、人の声も耳に入らないかのようだった。

2週間後、ふたたびアトリエを訪れた。絵は完成していた。

ピカソははればれとした顔をしており、いかにもくつろいでいる風だった。

私の手をとって「この絵はスペイン共和国のものだ。戦闘機1機分に匹敵するぞ」と満足そうに語った。

ピカソのその顔が、今も目に浮かぶ。

私は、この絵を展覧会に出品するために働いた。

しかし、アトリエで見て以来、私は「ゲルニカ」を見ていない・・・。


語り終えたビダル氏は、「ゲルニカ」と再会するためにマドリードへいくつもりだとつけ加えました。

ビダル氏はどんな思いで「ゲルニカ」の前に立つでしょう。

「ゲルニカ」を描くことでファシズムと戦争を告発したように、平和のためにたたかうというピカソの信念は、終生変わりませんでした。

1944年にフランス共産党に入党し、共産党員として生涯を終えたのも、この信念からでした。

しかし、ピカソは、「自分は永遠にスペイン人である」と、くり返し語っていたそうです。

「ファシズムの故国には帰らない」と決意したピカソでしたが、生誕百周年の81年、故国のために描いた作品「ゲルニカ」が祖国の土を踏んだのです。

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