お酒の種類 2

(3)本醸造、本格醸造、本造り

いずれも、「本」の字が頭についています。


米と米麹と水により仕込まれたもろみの末期に香味を調整するために醸造用アルコール(原料米1tに対して120名以下)を添加して造ったものです。


醸造用糖類は、使用されていません。


純米酒の濃醇さを残しながら、味の軽快さを加味したものです。


(4)吟醸酒


吟醸とは特に吟味して造ったという意味です。


純米酒又は本醸造の規格に限られ、しかも精米歩合が60%以下の白米を使用したものに限り表示出来ることになっています。


技術的にみた吟醸造りの特徴は、高度精白と低温発酵にあります。


優れた吟醸酒は、果実のような芳香があり、味は淡麗でなめらか、すっきりした上品な風味を持った清酒です。


吟醸酒は清酒の最高級品で、それは、理想を求めて造られたお酒の芸術品ともいうべきものです。

お酒の種類

(1)級別(特級、一級、二級)


清酒は、その品質の程度を級別で区別しています。

特級とは、品質が優良であるもの。


一級は、品質が佳良であるもの。


二級は、特級及び一級に該当しないものとなっています。


特級及び一級酒として売られている清酒は、大学の先生など、お酒の専門家を委員として各国税局ごとに設置されていている酒類審議会の酒類審査に出品。


特級あるいは轍酒としてふさわしい品位・風格・香味を兼ねそなえていると認定されたものです。


酒類審議会の級別審査に出品しないもの、或いは、出品しても特級酒、あるいは一級酒として認定されなかったものは、二級酒として販売されることになります。


(2)純米醸造、純米酒


米、米麹と水のみで造られたものです。


アルコールやブドウ糖などを使用しない、いわゆる米だけの酒です。


米からくる味の濃醇さを強調したもので、味の濃いものが多いようです。


原料や造り方が悪いと味に重さやくどさがでることがあります。

お酒を造る工程 3

このオリはさらに圧搾機に掛けて搾りますが、このオリを集めて、加温殺菌しオリ酒として市販されることがあります。


圧搾機でもろみを搾り切ったとき酒袋の中の粕を取り出します。


板状の粕は、甘酒や粕汁用に酒粕として出荷されます。


その他の粕はふみこみ粕として、タンクに貯蔵され、漬物に使われたり、粕取り焼酎の原料などに利用されます。


新酒はさらに濾過機に掛けて精製し、一定の品質になるように調合して貯蔵タンクに移します。


新酒では米麹の酵素がまだ生きていて、でんぷんやデキストリンをブドウ糖にまで分解してしまいますから、そのままにしておきますと酒質がどんどん変わってしまいます。


また、火落菌などにより、白濁したり、香味が悪くなってしまう心配もあります。


それらを防ぐために、一度、新酒を65℃前後に加熱し、殺菌するとともに、酵素の働きを停止させます。


それを火入れといいます。


特に現在、清酒には防腐剤や保存料といったものは一切使いませんので、火入れは入念におこないます。


火入れをしたお酒は、貯蔵庫や壁を厚くして外気の温度変化の影響をできるだけ少なくした貯蔵庫のタンクに入れて静かに貯蔵します。


お酒は貯蔵タンクの中で熟成が進み、やがて新酒時には見られなかった旨味やまろやかさがでてきます。


貯蔵庫の中のお酒は、適度に熟すのを待って、級別ごとに炭素をつかってろ過し、割水をしてアルコール分を調整し、ビン詰めされます。


ビン詰めは、熱酒ビン詰めといって、更に65℃前後に加温・殺菌してからビンに詰めます。


ビン詰めされた清酒は、ラベルを貼り製品として市場に出荷されます。

お酒を造る工程 2

高泡は5~6日続きますが、もろみの中のアルコール分が濃くなってくるにつれて泡はだんだん低くなり、15~16日には泡は全く消滅し、再びもろみの表面が見えるようになります。


もろみが熟成したわけです。


その頃、甘口にしたいときは、さらに蒸し米を添加し、甘さをつけます。


これを四段といいます。


風味に軽さを求める場合は、癖の少ない醸造用のアルコールを添加します。


糖類の使用は、増醸酒に限られその使用量も厳しく制限されております。


増醸酒は甘くてきれいなお酒で、一般に味の調整のため、調合用に使われそのまま単独で市販されることは普通ありません。


発酵が終わり熟成したもろみは、圧搾機に掛けて液状の清酒と固形部分の粕に分けます。


これを上槽といいます。


布製の袋にもろみを5リットル位入れ、槽とよばれる舟型の細長い箱の中に積み上げ、上から水圧機で徐々に圧力を掛けて搾ります。


翌日、槽直しといって、袋を積み替えて、さらに圧搾します。


搾った酒は、始め、酒袋の間から、膠がにじみ出てくるので、白く濁っています。


これをタンクに入れ静置すると、濁りがオリとなって底に沈みます。


オリが下がったところで、オリをタンクの下方から抜き取ります。これをオリ引きといいます。

お酒を造る工程

清酒もろみは、酒母に蒸米と米麹と仕込水を加えて造ります。


もろみを炉布でこしたものが清酒です。


酵の香味の良し悪しが、そのまま清酒の品質に結びつきますから、酵造りは非常に大切な工程です。


1日目、酒母を大きなタンクに移し、蒸米と米麹と仕込水を投入します。


この操作を仕込みといい、第1日目の仕込みを初添といいます。


2日目は、蒸米等を入れるのを止め、保温しながら、酒母からきた酵母が増殖し、さらにその数を増やすのを待ちます。


これを踊りといいます。


3日目の仕込を仲添、4日目の仕込みを留添といいます。


このように、清酒酵は、初添、仲添、留添と3回に分けて仕込みます。


これを三段仕込といいますが、この方法は、清酒独特のもので、古くから行われており、開放発酵でありながら雑菌汚染による品質の低下や発酵停止を防ぐための非常に有効な方法であります。


留添は8℃位に仕込みます。


もろみは、発酵熱により、1日約1℃位ずつ温度があがりますから、7~8日もすると最高の15~16℃まで達します。


また仕込み後、2~3日もすると、もろみの表面には泡がでてきます。


やがて、泡はだんだん多くなり、もろみの表面をおおい、次第にタンクの上のほうに上がってきます。


5日目頃、泡は最高に達します。


これを高泡といいます。

ピカソとゲルニカ

当時のピカソをよく知っているジャック・ビダル氏。

スペインのカタロニア出身で、長い間パリで画材商を営んできた人です。

白髪のビダル氏は、「ゲルニカ」が制作された時のもようを、こんな風に話しています。


1937年4月26日、ナチス・ドイツの爆撃機がスペインのゲルニカを襲撃し、壊滅させた。

ピカソは、フランスの新聞「ス・ソワール」でこの大虐殺を知り、憤った。ピカソは考えた。

"この悪業を告発するために、どうすればいい?"

パリ駐在スペイン共和国大使のアラキスタンは、パリ国際展覧会に告発の絵を出品するよう、ピカソに依頼した。

私は当時、ピカソに画材を届けていた。

ある日、前日に注文を受けたカンバスを届けようと、ピカソのアトリエのドアをたたいた。

たしか午前10時ころだったから、"早すぎるかな"と思った。

そのころピカソは昼夜逆転の生活を送っていたからだった。

だが、ピカソは起きていた。険しい顔つきで「なぜこんなに遅いのだ」といった。

カンバスが届くのを、しびれを切らして待っていたことが読みとれた。

私はすぐ、カンバスづくりを始めた。

いつもの大きさをはるかに超えたカンバスが、彼の注文だった。

木枠を組み立て、画布を張った。

見るとピカソは、私の仕事を待っている間、アトリエの床にいくつものデッサンをかいていた。

彼は、台に乗って、木炭でデッサンを始めた。

一口もしゃべらず、まわりの音も、人の声も耳に入らないかのようだった。

2週間後、ふたたびアトリエを訪れた。絵は完成していた。

ピカソははればれとした顔をしており、いかにもくつろいでいる風だった。

私の手をとって「この絵はスペイン共和国のものだ。戦闘機1機分に匹敵するぞ」と満足そうに語った。

ピカソのその顔が、今も目に浮かぶ。

私は、この絵を展覧会に出品するために働いた。

しかし、アトリエで見て以来、私は「ゲルニカ」を見ていない・・・。


語り終えたビダル氏は、「ゲルニカ」と再会するためにマドリードへいくつもりだとつけ加えました。

ビダル氏はどんな思いで「ゲルニカ」の前に立つでしょう。

「ゲルニカ」を描くことでファシズムと戦争を告発したように、平和のためにたたかうというピカソの信念は、終生変わりませんでした。

1944年にフランス共産党に入党し、共産党員として生涯を終えたのも、この信念からでした。

しかし、ピカソは、「自分は永遠にスペイン人である」と、くり返し語っていたそうです。

「ファシズムの故国には帰らない」と決意したピカソでしたが、生誕百周年の81年、故国のために描いた作品「ゲルニカ」が祖国の土を踏んだのです。

パリのピカソの家に記念碑

81年10月25日は、スペインの生んだ画家パブロ・ピカソの生誕100周年でした。

ピカソが91歳の生涯の4分の3を過ごしたフランスでは、その秋、その後も各地で展覧会が催され、画集が発行されるなど、各種の記念行事がおこなわれています。

ユネスコ(国連教育科学文化機構)が、パリで「近代絵画に与えたピカソの影響」をテーマにしたセミナーを開催する、パリのピカソの家に記念碑が建てられるという具合です。

9月には、40年以上もニューヨークに"亡命"していた世紀の名画「ゲルニカ」がマドリードへ帰ってきました。

その帰国を歓迎する公開には長い行列ができ、カルロス国王もイバルリ共産党議長も鑑賞するなど、話題をいっそうにぎやかにしています。

パリを流れるセーヌ川の左岸、ノートルダム寺院から5分ほどのところ、サン・オーグスタン通り7番地。

塀にはめこまれた新しい碑が目立ちます。


「パブロ・ピカソ、1936年から55年まで、ここに住む。

1937年の『ゲルニカ』は、ここのアトリエで描かれた。

ここはまた、以前にバルザックが住み、『知られざる傑作』を書いた家でもある」。

碑に刻まれた文章です。

3階建てのこの家の屋根には大きな明かりとりのガラスがはめこまれ、ピカソが絵筆をふるった当時をしのぶことができます。

次つぎに訪れる見学者が、立ち止まっては碑文を読んでいました。

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コルシカとフランスの結びつき 3

コルシカでは1768年以来、フランス語が公用語とされていますが、日常の話はコルシカ語ともいうべき独特の言葉です。

古代ローマ語が11世紀まで残っていた島でもあり、ラテン語、そしてイタリア語に若干のフランス語が混じったもの。

カフェなどでコルシカ人同士の会話を聞くのは島滞在中の楽しみの1つでした。

ナポレオン博物館に陳列されている教会発行のナポレオンの洗礼証明書はジェノバ語(イタリア語のジェノバ方言)で書かれています。

当時は出生証明書などはなく、そうした法的整備をおこなったのが、その名を冠した法典で知られるナポレオンでした。

ナポレオンは青年時代「フランス語は敵国語」とみなし、バカにしきっていたためにフランス語が下手で、劣等感をいだいていました。

士官学校時代にも、数学や地理は優等だったのに国語(仏語)では劣等生でした。

ナポレオンの3人目の妻はポーランド人のマリ・ワレベスカでしたが、彼女の「美しさ、下手なフランス語、かわいい声にすっかり魅せられた」とナポレオンは述懐しています。

彼女はナポレオンの仏語コンプレックスをカバーする存在だったのです。

今日のコルシカ人にも、フランス語が下手な人びとが少なからずいることがわかったことも興味あることでした。

現在、この島ではコルシカ語の普及とコルシカ民族文化の擁護が大きな課題となり、議会でも検討されています。

この島はまだ文字や楽譜に映されていない詩歌や民謡の宝庫といわれています。

数世紀の間、羊飼いや漁民に歌いつがれてきたバラード、フォルクロールなども、また独立戦争時代の歌も数多くあるといわれています。

フランス文化への同化ではなく、民族文化の発掘、保存が島をあげての重要問題となっています。

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コルシカとフランスの結びつき 2

現代フランスとの結びつきを強めた要因として、レジスタンス闘争は特筆されます。

アジャクシオの埠頭の壁には、「1943年9月9日フランスと共和国のために立ち上がった愛国者を支援するために、9月13日午前1時半100人の突撃隊がここに上陸す」と書かれたプレートがはめこまれて
います。

上陸直後に、1942年11月にコルシカを占領したムソリー二・イタリアとヒトラー・ドイツの連合軍10万による占領は終わり、この島がファシズム打倒の巨大な航空母艦の役割を果たすのです。

コルシカは第一次世界大戦(1914~18年)でも、島民の5人に1人にあたる4万人が死ぬという戦争の悲惨を味わっています。

コルシカ人は、ナチに降伏したフランスのビシー政権支配を拒否したものの、独伊占領初期にはレジスタンスに身を投じる者は100人余でした。

しかしイタリア降伏の43年9月9日には、7万人の島民が立ち上がったのです。

当時の新聞は「フランスとイタリアの間に紛争がおき、それが民主主義対ファシズムという形をとっていなかったなら、コルシカ人はどちらにも参加しなかった。

それはペストとコレラの選択に等しいからだ」と書いています。

コルシカは山の要塞ともいえる島。

アジャクシオからバスチアまで4時間余の汽車の旅は、小箱のような1両の車両で2500メートル級の山間を通りぬけるのです。

ここの灌木林はかつての独立闘争でもレジスタンス闘争でも大きな役割を果たしました。

この林はマキと呼ばれますが、フランスでレジスタンス闘争をマキと呼ぶ言い方はこの島から生まれているのです。

解放闘争にかんする記念碑や名称が多く、これも島の誇りとなっています。

コルシカとフランスの結びつき

ミッテラン大統領の公約により、コルシカ議会が、83年の選挙によって創設されました。

これには同島が歴史的に虐待され、いじめられてきたという認識と危機がひときわ深刻であることのほかに、自治強化による地方分権政策の強調がありました。

おそらくナポレオン以来のフランス政治の中央集権を、彼の出生地でもくずそうという挑戦の意味もあったでしょう。

コルシカでは、独立を唱えるグループが爆弾テロをくり返すという状況が70年代から続いており、不満をもつ他の島民の同調といった事態を防ぐ意味もありました。

コルシカ島は14世紀半ばごろからジェノバ共和国(イタリア)の領土とされ、1750年代には激しい独立闘争が展開されました。

この勇敢なたたかいは、同時期の米国の独立戦争とならんで欧州で注目されました。

同島は1768年フランスに委譲され、その翌年にナポレオンが産声をあげたのです。

ナポレオンはこうした経過から反仏精神をもって育ち、ついにはフランスを支配することになるのです。

アジャクシオはナポレオンの記念碑・像、その名を冠した通り・建物にあふれており、今日もなおナポレオン信奉者が多く、土地の誇りとされています。

市庁舎にはナポレオン博物館があり、遺品やメダル、金貨などが陳列されています。

通り1つへだてた生家も博物館に。

コルシカの運命は、フランス革命(1789年)とナポレオンの支配により大きく変わります。

フランス革命の年、コルシカ独立戦争を導いたパスカル・パオリ司令官は

「コルシカはみずからの鉄鎖を破った。

奴隷としてではなく、参加そして権利の行使のために自由なフランス国民と連合する」と語っています。


ナポレオンは第一統領や皇帝の時代、フランス本土とともにコルシカをみずからの直轄支配に入れ、ジェノバの総督府のおかれたバスチアから故郷のアジャクシオを首都にします。

しかし、ナポレオンの推進した全支配のパリへの集中という中央集権制は、後にコルシカを後進地に陥れる皮肉な結果となります。

コルシカは古代ローマ帝国の植民地とされて以来、ムーア人、ベルベル人、ピサ、ジェノバの支配を受けてきており、島民は名誉と復讐(バンデッタ)の習慣を今でも重んじ、独立心に富んでいます。

この島がフランスに編入され強く結びついているのも、結局はフランス革命とナポレオンによるものなのです。

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